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- 阿部村(近世)とは
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阿部村(近世) 江戸期~明治14年の村名備中国賀陽郡のうち「あぶむら」とも称す総社平野に位置する地名の由来は,十二箇郷用水路の支流あぶ川にちなむという旗本花房氏領村高は,「備中至宝記」134石余,「天保郷帳」141石余,「備中村鑑」134石余,「旧高旧領」131石余用水は十二箇郷用水による当村出身の梶野久太郎は京都に出て音律を修業して検校となり大森検校城誉と称し,寛永20年には氏神の総社宮(八田部村)に金10両と神田および金灯籠一対を寄付している倉敷県,深津県,小田県を経て,明治8年岡山県に所属同14年福井村の一部となる現在の総社3丁目の地 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
阿部村(近世) 江戸期~明治8年の村名美濃国武儀【むぎ】郡のうちはじめ洞戸【ほらど】村のうち,正保4年の洞戸村年貢免状(河合家文書)に「阿部分」,元禄13年の御改下書に「阿部村」と見え,近世中期の分村と推定される当初幕府領,元和5年から尾張藩領村高は「濃州徇行記」37石余,「天保郷帳」「旧高旧領」17石余「濃州徇行記」によれば当村の人口は65で,四方を山に囲まれ土地狭く,矮屋のみの貧村という名古屋までの道程14里寺に浄土真宗西派福常寺末の超願寺がある明治4年岐阜県に所属同8年奥洞戸【おくほらど】村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」